ここでは前節にひきつづき量子力学の基礎的な分野を扱う。
特に2状態系(2準位系)を例にとり、
状態ベクトル、物理量と演算子、状態の時間発展を説明する。
後半では2状態系の具体例としてニュートリノ振動を扱う。
ただし、ニュートリノに関する詳しい議論は行わない。
この点はご了承いただきたい。
この節は数式が多く、かなり長くなってしまった。
しかし、それぞれの数式自体は決して難しくないと思うので、
何とか頑張って最後まで読んでいただきたい。
前節では物質の波動性を示す干渉実験を紹介し、
ブラ・ケット記法を導入した。
ブラ及びケットは状態ベクトルと呼ばれるのであったが、
ここではまずどうして状態「ベクトル」と呼ばれるのかということから考えてみよう。
前節の最後で、Sから飛び出した電子がスクリーンに到達するときの
確率振幅は以下のように表されるということを扱った。
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… (1) |
この式を見てみると、ベクトルの内積の形になっていることに
気づかないだろうか?
すなわち、以下のような式と(1)式が似ているということである。
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… (2) |
|1>と|2>を2次元の単位ベクトルだと考えると、
確かに(1)と(2)は同じ形になっていると考えられる。
この場合は、状態|S>と|x>の|1>成分と|2>成分を取り出して考えている
ということになる。
このように、量子力学では状態をベクトルで表示する。
一般的に、量子力学における状態はψ(プサイ)というギリシャ文字を
使って表すことが多い。
状態ψを表す状態ベクトルは|ψ>ということになる。
数学において、ベクトルというもの自体は抽象的な量である。
しかし、ある座標系を設定してベクトルの成分を実際に書き出してみると
わかりやすくなる。
これと同じように、状態ベクトルも座標系を決めて表示するとわかりやすくなる。
量子力学において、座標系の基底ベクトル(3次元のデカルト座標ではx方向、y方向、
z方向に対応する基本的なベクトル)となる状態ベクトルを
「基本状態」と言う。
基本状態は通常の座標系の基底ベクトルと同じように
大きさが1になるように設定しておく。
また、異なる基本状態同士の内積はゼロになるようにしておく。
実際の物理系において基本状態はどのようなものだろうか?
例えばある一つの粒子の運動について考える。
すると、その粒子の状態は無数にあり、有限次元のベクトルでは表せないことがわかる。
このように、一般には状態ベクトルは無限次元のベクトルである。
よって、その取り扱いは通常「座標表示」という方法を用いて行われる。
これについては次節で取り上げる予定である。
一般に物理的な状態は無限にあるが、
近似的に有限個の状態を想定できる場合がある。
具体例は後ほど挙げるが、
ここでは状態|1>と状態|2>を基本状態とする
2次元の系を考える。
このような系は2状態系と呼ばれる。
2状態系の基本状態|1>と|2>を具体的に成分表示してみよう。
これらは座標系における基底ベクトルと同じなので、
以下のように表すことができる。
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… (3) |
ケットベクトル|ψ>は通常このように縦ベクトルで表される。
これに対しブラベクトル<ψ|は以下のように横ベクトルで表される。
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… (4) |
一般に、ブラはケットを横ベクトルにして複素共役をとったもの
(線型代数の用語で言うとエルミート共役)で表す。
ブラケット<ψ|φ>は状態ベクトル同士の内積を表す。
横ベクトル×縦ベクトルという形になり、通常の行列の演算を
行えばよいことになる。
内積<ψ|φ>は前節で説明した通り確率振幅を表すことになる。
確率振幅は一般に複素数だったので、状態ベクトルの各成分は
複素数でも良いということがわかる。
(3)、(4)式で表される状態|1>、|2>の内積を実際に取ってみると
以下のようになる。
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… (5) |
状態1と状態2の内積はゼロになっている。
これは状態1と状態2が直交していると表現する。
状態1同士の内積と状態2同士の内積は1になっている。
通常のベクトルと同じように自分自身の内積はそのベクトルの
大きさの自乗を表すので、これらのベクトルの大きさは1である。
量子力学における状態ベクトルは、常に大きさが1になるように
選ばなければならない。
状態ベクトルの大きさが1になるように調整することを
「規格化する」と言う。
状態ベクトルを規格化する理由は、状態ベクトルの各成分が
確率振幅を表すからである。 例えばある状態|ψ>の
第1成分は<1|ψ>と書くことができ、状態ψが状態1である
確率振幅を表す。
一方、第2成分は状態ψが状態2である確率振幅を表す。
確率振幅はその自乗が確率になるので、
確率振幅の自乗の総和は全確率に等しく、1にならなければならない。
このような理由で、状態ベクトルの各成分の自乗の総和、すなわち
状態ベクトルの大きさの自乗は1にする必要がある。
今、ある状態|ψ>が以下のような状態であるとする。
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… (6) |
まず、この状態は規格化されているので状態ベクトルとして適切であることがわかる。
この場合に、この状態ψと状態1及び2との内積を求めて自乗すると
以下のようになる。
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… (7) |
内積は確率振幅を表し、確率振幅の自乗は確率を表すのであった。
(7)式によると、状態ψが状態1である確率が50%、
状態2である確率が50%だということになる。
これはどういうことだろうか?
実際にψという物理状態が実現しているときに、
状態|1>か|2>のどちらをとっているのかを測定したとする。
すると、測定結果は50%の確率で状態1、50%の確率で状態2になるのである。
|ψ>という状態が完全に再現されても、
測定するたびにその結果が違いうるのである!
このように物理状態に確率的な性格があるということは
量子力学の非常に大きな特徴である。
(6)式の状態ψに対して、1回測定を行ったところ状態1であったとする。
この直後、もう一度測定を行うとどうなるだろうか?
状態1、2とも50%の確率で測定されることが予想されるが、
この場合には測定結果は必ず状態1になる。
状態ψは観測した結果状態1に変化してしまったのである!
このように、測定により状態が変化してしまう問題のことを
「観測問題」と言う。
観測問題は現在でもはっきりとした解釈がなされていない、
量子力学の未解決問題である。
ここまで状態ベクトルについて扱ったが、ここからは
物理量がどのように表されるかを考える。
物理状態が状態ベクトルで表されるのに対して、
物理量は演算子で表される。
演算子とは、状態ベクトルに作用して別のベクトルに
変化させるものである。
状態は基本状態を用いて表現できるが、
演算子は行列を使って表現することができる。
2状態系では、状態ベクトルは2次元のベクトルになるので、
演算子は2×2行列で表されることになる。
演算子の例として、エネルギーに対応するハミルトニアンという
演算子を考えてみよう。
ハミルトニアンは通常Hで表される。
Hが演算子であることを強調するために、Hの上に^(ハット)を
着けて表現する場合が多い(残念ながらHTMLで表現する方法を私は知りません…)。
今、ハミルトニアンが以下のようになっている状況を考える。
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… (8) |
ただし、E1とE2は異なる実数であるとする。
ハミルトニアンを状態1及び状態2に作用させた場合どのように
なるかを計算してみると、
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… (9) |
となる。 演算子をベクトルに作用させた結果、どちらの場合も
定数×元のベクトルが表れている。
このようなベクトルと定数は行列に固有のもので、線型代数の用語で
固有値と固有ベクトルと呼ばれる。
ハミルトニアンはエネルギーを表す演算子なので、
特にハミルトニアンの固有ベクトルをエネルギー固有状態、
固有値をエネルギー固有値と呼ぶ。
エネルギー固有状態においてエネルギーを測定すると、
必ず対応するエネルギー固有値が得られる。
今の場合では、状態|1>であることがわかっている状態でエネルギーを測定すると
その値は必ずE1となるのである。
このように基本状態がエネルギー固有状態になっているとき、
ハミルトニアンが「対角化されている」と言う。
実際に観測されるエネルギーはエネルギー固有値であるので、
ハミルトニアンを(線型代数の手法により)対角化することが
量子力学の重要な問題になる。
それではエネルギー固有状態でない状態でエネルギーの測定を
行うとどうなるだろうか?
得られるエネルギーの値は、必ずエネルギー固有値のどれかになるのである。
この場合はエネルギーの測定結果は必ずE1かE2になるのである。
しかし、エネルギー固有状態でない状態で観測を行うと、
どちらのエネルギーになるかは確率によって表されることになる。
測定されるエネルギーの期待値は、状態ベクトルで演算子をはさんで計算することによって得られる。
例えば(6)式の状態|ψ>におけるエネルギーの期待値を
ハミルトニアン(8)式を使って表すと以下のようになる。
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… (10) |
先ほど求めた結果では、状態|ψ>が状態|1>である確率は50%、
状態|2>である確率は50%であった。
よって、エネルギーもE1になる場合が50%、
E2になる場合が50%の確率で実現するのである。
このような理由により、期待値は(10)式のように表されるのである。
次に、状態ベクトルがどのように時間変化するかを考えよう。
状態の時間発展にはハミルトニアンが密接に関係している。
扱う系は、今までと同じく基本状態が(3)式で表される2状態系である。
ハミルトニアンは(8)で表されるとする。
状態は時間が経つにつれ変わりうるので、状態ベクトルは一般には
時間の関数になる(シュレディンガー描像の場合)。
そこで、時間の関数である状態ベクトルを|Ψ(t)>(プサイの大文字)とおく。
状態Ψは時間によって変化するので、それぞれの成分も時間によって変化すると
考えられる。 これらの成分を以下のように表すことにする。
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… (11) |
ただし、状態ベクトルは時間に関係なく規格化されていなければならない。
このためには、成分C1とC2が以下の条件を満たす必要がある。
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… (12) |
状態ベクトルが時間変化する場合、
その状態ベクトルは以下の式に従って時間変化する。
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… (13) |
これはシュレディンガー方程式(一般形)と呼ばれる量子力学の
基本的な方程式である。
現在ではシュレディンガー方程式は量子力学の公理の1つであると考えられており、
他のものから導くことはできない(推測することはできるが)。
状態ベクトル(11)をシュレディンガー方程式に代入すると、
各成分に対する2つの微分方程式が得られる。 ただし、ハミルトニアンは
(8)のものをそのまま使う。
得られる方程式は以下の通りである。
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… (14) |
これらはそれぞれ独立した微分方程式で、変数分離法を使って解を簡単に求めることができる。
結果は以下のようなものである(微分方程式の解き方を知らない場合は
これらを微分方程式に代入して解になることを確認すると良い)。
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… (15) |
CおよびC’は任意定数である。 時刻t=0での係数の値をC1(0)および
C2(0)とすると、状態ベクトル|Ψ(t)>は
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… (16) |
と書ける。
もしt=0で状態|1>だった場合、つまりC1(0)=1、
C2(0)=0の場合、|Ψ>の第2成分は時間が経ってもゼロのままである。
第1成分は変化するが、δ(デルタ)を実数として、その変化はeiδという形をしている。
確率振幅自体は直接物理的な意味をもっておらず、その大きさの自乗が確率になる。
eiδは絶対値を取ると消えてしまう因子なので、
実質上状態は変化していないことになる。
このように、ある時刻においてエネルギー固有状態にある場合、
その系の状態は時間変化しない。
(16)式の各成分はそれぞれ振動数ω=E/ħで振動すると考えることができる。
これはド・ブロイの仮説E=ħωに対応している事がわかる。
このことを考えると、状態の時間変化にエネルギーを表す演算子ハミルトニアンが
関係してくることが少しわかりやすくなるだろう。
ここで一つ例を2状態系の挙げて状態の時間変化の様子を考える。
2状態系にはいくつか例があるが、ここではニュートリノを取り扱うことにする。
ニュートリノとは、核反応の際に放出される素粒子の一種である。
ニュートリノは太陽や超新星において発生しており、超新星ニュートリノをカミオカンデにより
観測した小柴昌俊先生がノーベル賞を受賞したのは記憶に新しいことである。
ニュートリノには電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノの
3種類がある。
これらはそれぞれ別の粒子であるが、あるニュートリノが別のニュートリノに変化する
「ニュートリノ振動」という現象があるのではないかと言われている。
ここでは特に電子ニュートリノとミューニュートリノについて考える。
ある粒子が電子ニュートリノである状態を|1>、ミューニュートリノである状態を
|2>とおくことにする。
それぞれの成分は今までと同じように|1>=(1,0)、|2>=(0,1)とする。
もちろん、ニュートリノの状態はどの種類の粒子であるかによってのみ規定される
ものではない。 どこにあるか、どのぐらいの速度で運動しているかなどによって
状態は無限個存在している。 しかし、今問題にしているのは粒子が電子ニュートリノか
ミューニュートリノかどちらの状態にあるのかということのみである。
そこで、近似的にこのニュートリノを2状態系として扱うことにする。
このニュートリノのハミルトニアンは以下のように書けるとする。
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… (17) |
EおよびAは実数とする。
まず最初に、状態1および2におけるエネルギーの期待値を計算してみよう。
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… (18) |
これは電子ニュートリノとミューニュートリノのエネルギーの期待値がともに
Eであることを表している。
実際のニュートリノに関しては未知の部分が多く、
このようになっているのかどうかはわかっていない。
ハミルトニアンを状態1および2に作用させると、以下のようになる。
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… (19) |
A=0ならば先ほどと同じように、状態1と2はエネルギー固有状態になっている。
しかし、A≠0の場合はこれらの状態はエネルギー固有状態ではない。
実際のニュートリノは、Aがゼロでない可能性があるそうである。
ニュートリノにはごくわずかだが質量があることが確認されている。
このため、ニュートリノの状態は他の状態の重ね合わせである可能性があり、
その場合A≠0になるとのことである。
さて、状態1および2はエネルギー固有状態ではなかったので、
エネルギー固有状態を探すことがまず問題になる。
これは一般には固有値・固有ベクトルを求めて行列を対角化する問題に帰着するが、
ここではもう少し簡単にエネルギー固有状態を探すことができる。
(19)式の対称性から、これら2つの式を足したものと引いたものが
固有状態になっていることが推測できる。
すなわち、以下のようになる。
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… (20) |
これら2つの状態を新たにλ+(ラムダ・プラス)、λ−
(ラムダ・マイナス)とおくことにしよう。
ただし、状態ベクトルは規格化しなければならない。
規格化まで行うと、エネルギー固有状態の2つのベクトルは以下のようになる。
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… (21) |
時間の関数である状態|Ψ(t)>を、エネルギー固有状態を使って表してみよう。
このベクトルは、状態1および2を使って書いた場合(11)式のように表されているとする。
これは、以下のように書き直せる。
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… (22) |
このように、状態Ψをエネルギー固有状態で表したときの
λ+の係数及びλ−の係数をC+、
C−とおくことにする。
具体的には以下のようになる。
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… (23) |
以上でエネルギー固有状態を求め、時間変化する状態Ψをエネルギー固有状態で表した。
これで準備は完了したので、シュレディンガー方程式を用いて
状態Ψの時間変化の様子を見てみよう。
シュレディンガー方程式に状態Ψとハミルトニアンを代入し、
(23)式を使って整理すると以下のような方程式が得られる。
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… (24) |
これはそれぞれ独立した微分方程式なので、
先ほどと同じように変数分離法を使って解くことができる。
解は以下のようになる。
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… (25) |
これを(23)式を使ってC1とC2で表すと、
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… (26) |
となる。 これらを連立してC1(t)及びC2(t)を求めると、
結果は以下のようになる。
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… (27) |
時刻t=0でΨが状態|1>、すなわち電子ニュートリノだったとしよう。
すると、C1(0)=1、C2(0)=0となるので、
これを(27)式に代入すると状態|Ψ>の時間変化の様子が
以下のように求められる。
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… (28) |
2行目から3行目の計算にはオイラーの公式を使った。
全体にeiδという形の因子(位相因子)がかかっているが、
これは絶対値を取ったときに1になってしまうので意味をもたない
(こういうわけで量子力学でもエネルギーの基準はどこにとっても良いことにな
る)。
ただし、物性物理学などで位相因子が非常に重要な意味を持つ場合もある
(ゲージ対称性の破れ)。
状態Ψが状態1および2である確率振幅を求め、大きさを自乗することにより
それぞれの確率を求めてみよう。
(28)式のそれぞれの成分の大きさの自乗を取ればよいので、
状態1である確率をP1、状態2である確率をP2とすると、
結果は以下のようになる。
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… (29) |
時間によって振動する解が得られた。
これは図示すると以下のようになっている。
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… (a) |
赤い線が状態1、すなわち電子ニュートリノである確率であり、
緑の線が状態2、ミューニュートリノである確率である。
y軸は確率、x軸は時間を表している(A/ħを1とする単位を使用した)。
電子ニュートリノ及びミューニュートリノが系のエネルギー固有状態でないとすれば、
ある時刻でニュートリノの種類が確定している場合でも
時間によって別のニュートリノに変化しうるということを表している。
現在、ニュートリノ振動はいろいろな証拠から
現実に起こっている現象だと考えられている。
スーパーカミオカンデなどの実験施設により、さらなる研究が進んでいる。
この節では量子力学の基礎に関する多くのことを扱った。
まとめると、まず状態はベクトルで表され、物理量は演算子で表されるのであった。
状態の数は一般には無限個だが、有限であると近似できる場合には基本状態を決めれば
実際に状態ベクトルの成分を書き出し、演算子を行列で表すことができる。
時間変化を考える場合、まずハミルトニアンを対角化してエネルギー固有状態を
探し、シュレディンガー方程式を用いて時間変化の様子を見ることになる。
次節からは、1次元空間を運動する粒子について扱う。
今度は状態は有限個ではないので、今回のように行列の計算に帰着しない。
そこで、基本状態として粒子の位置を選ぶ「座標表示」を使うことになる。
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